Life In Kyoto 日本語版 2005年3月号
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鞍馬と義経伝説

NHKの2005年大河ドラマ(年間を通じて放送される歴史ドラマ)の「義経」は平安時代(794-1192)より日本の偉大な武家の英雄とされてきた源義経(1159-1189)の物語です。
2004年の大河ドラマ「新撰組」がそうであったように、「義経」もやはり京都が舞台となっていて鞍馬の山村がその中心でもあります。このドラマは滝沢秀明を主役としてNHKで毎日曜日、夜8時に放送されています。

鞍馬寺

鞍馬寺

鞍馬は京都市の北部にあり、電車で30分ほどで行ける丘陵地帯です。また鞍馬は松や杉、イト杉、そしてその他の木々でできた森を特色とした神秘な自然地帯なのです。義経の育った鞍馬寺は770年に創建され、標高560mの鞍馬山の頂きのすぐ下にあります。寺は以前は仏教の天台宗に属していましたが、1949年から鞍馬教という独立した宗派として存在しています。寺は現在有名な信楽香仁様という女性貫主によって運営されています。またその一帯は例年行事である「火祭」でも有名で、毎年10月22日に行なわれています。義経は鞍馬寺に7歳から16歳まで住みし、武芸を極めたのでした。
義経がいかにして鞍馬寺に行き暮らすことになったかについて、その歴史的状況について一瞥して見ましょう。

12世紀の日本の中期には二つの主なる「武士団」つまり武家グループがいました。それは平(平氏)と源(源氏)という氏族であり、その起源をたどれば、それぞれ恒武天皇、清和天皇に遡ります。1156年の保元の乱では義経の父である義朝は平族と連合して源為義が率いる対抗勢力を打ち破りました。四年後に今度は前に連合していた源義朝と平清盛が平治の乱において会いまみえ戦うことになったのです。源義朝は殺され、源氏の勢力はこうに一掃されてしまいました。平清盛によるこの勝利こそが平族をしてそのもてる武力を支えに、大いなる権力をもつにいたらしめたものだったのです。義朝の四人の息子は捕らえられましたが命だけは許されました。

清盛は義朝の長子、頼朝を伊豆(静岡県)に流刑し、次の二人は僧侶となるよう仏教の寺に送ってしまいました。義経はその時、まだ赤子であったので当分、その母と一緒に暮らすことをゆるされましたが、7歳になって生涯、仏教の僧侶として仕えるよう鞍馬寺におくられました。

鞍馬寺で暮らした10年の間に義経は翼をもった高い鼻をした本来山の守護者である天狗に出合ったといわれています。義経はこの奇妙で、不可思議な武術の達人の指導のもとで偉大なる武士になるべく鍛錬に努めました。心身ともにいかなる艱難に面したときも常に源氏の再興のため偉大な武士になるのだとの思いを強固なものにしたのです。義経が鞍馬で修行する間に、片や平清盛(1118-81)は宮中において出世を極めることになりました。彼の外孫は天皇にまでなるに至ったほどです。しかし義経は後に連続する三つの合戦により平一族を完全に崩壊せしめることになります。一の谷の戦い(1184)は現在近代都市になっている神戸の近くの攝津で行なわれました。この戦いでは、平宗盛はその父 平清盛の死(1181)の後、平一族の指揮官となっていました。第二の戦いは1185年3月の四国、屋島の戦いでした。義経は平一族の砦に急襲をかけ、それに成功し、瀬戸内海の西へと平一族を逃亡させたのです。平一族は1185年4月25日、ついに最後の戦いに敗れることに成りました。山口県の下関市の東にある壇の浦の海戦においてであります。義経が平の巨大な船団を追いつめその指揮官、平知盛を死に至らしめるまで僅か半日を要するに止まりました。この戦いで平の主要な人物はことこどく捕らえられ、或いは殺され、ここに平一族は完全に崩壊したのであります。義経は勝利に輝く英雄として京都に凱旋し、後白川法皇のご愛顧を賜りました。しかし、義経の絶大なる人気は彼の異母兄である源 頼朝の疑念と嫉妬を招くことになりました。頼朝は源族の最高指揮官でした。彼の政治的野心は鎌倉に彼独自の政府を立ち上げることでした。そして1192年に将軍に任ぜられ、日本で初の幕府という武家政治(将軍政府)を樹立しました。

頼朝は義経を追いつめついに頼朝に対する反乱に組するよう策略し、この反乱を所詮、失敗に終わらせることになり、止むを得ず義経は郎党家来と共に北の奥州(現在の東北)に避難の場所を求めることになります。

苦難をきわめた逃避行の末、奥州の平泉(岩手県)の藤原NHKの2005年大河ドラマ(年間を通じて放送される歴史ドラマ)の「義経」は平安時代(794-1192)より日本の偉大な武家の英雄とされてきた源義経(1159-1189)の物語です。

2004年の大河ドラマ「新撰組」がそうであったように、「義経」もやはり京都が舞台となっていて鞍馬の山村がその中心でもあります。このドラマは滝沢秀明を主役としてNHKで毎日曜日、夜8時に放送されています。

鞍馬山の木の根

鞍馬山の木の根

鞍馬は京都市の北部にあり、電車で30分ほどで行ける丘陵地帯です。また鞍馬は松や杉、イト杉、そしてその他の木々でできた森を特色とした神秘な自然地帯なのです。義経の育った鞍馬寺は770年に創建され、標高560mの鞍馬山の頂きのすぐ下にあります。寺は以前は仏教の天台宗に属していましたが、1949年から鞍馬教という独立した宗派として存在しています。寺は現在有名な信楽香仁様という女性貫主によって運営されています。またその一帯は例年行事である「火祭」でも有名で、毎年10月22日に行なわれています。義経は鞍馬寺に7歳から16歳まで住みし、武芸を極めたのでした。

義経がいかにして鞍馬寺に行き暮らすことになったかについて、その歴史的状況について一瞥して見ましょう。

12世紀の日本の中期には二つの主なる「武士団」つまり武家グループがいました。それは平(平氏)と源(源氏)という氏族であり、その起源をたどれば、それぞれ恒武天皇、清和天皇に遡ります。1156年の保元の乱では義経の父である義朝は平族と連合して源為義が率いる対抗勢力を打ち破りました。四年後に今度は前に連合していた源義朝と平清盛が平治の乱において会いまみえ戦うことになったのです。源義朝は殺され、源氏の勢力はこうに一掃されてしまいました。平清盛によるこの勝利こそが平族をしてそのもてる武力を支えに、大いなる権力をもつにいたらしめたものだったのです。義朝の四人の息子は捕らえられましたが命だけは許されました。

清盛は義朝の長子、頼朝を伊豆(静岡県)に流刑し、次の二人は僧侶となるよう仏教の寺に送ってしまいました。義経はその時、まだ赤子であったので当分、その母と一緒に暮らすことをゆるされましたが、7歳になって生涯、仏教の僧侶として仕えるよう鞍馬寺におくられました。

鞍馬寺で暮らした10年の間に義経は翼をもった高い鼻をした本来山の守護者である天狗に出合ったといわれています。義経はこの奇妙で、不可思議な武術の達人の指導のもとで偉大なる武士になるべく鍛錬に努めました。心身ともにいかなる艱難に面したときも常に源氏の再興のため偉大な武士になるのだとの思いを強固なものにしたのです。義経が鞍馬で修行する間に、片や平清盛(1118-81)は宮中において出世を極めることになりました。彼の外孫は天皇にまでなるに至ったほどです。しかし義経は後に連続する三つの合戦により平一族を完全に崩壊せしめることになります。一の谷の戦い(1184)は現在近代都市になっている神戸の近くの攝津で行なわれました。この戦いでは、平宗盛はその父 平清盛の死(1181)の後、平一族の指揮官となっていました。第二の戦いは1185年3月の四国、屋島の戦いでした。義経は平一族の砦に急襲をかけ、それに成功し、瀬戸内海の西へと平一族を逃亡させたのです。平一族は1185年4月25日、ついに最後の戦いに敗れることに成りました。山口県の下関市の東にある壇の浦の海戦においてであります。義経が平の巨大な船団を追いつめその指揮官、平知盛を死に至らしめるまで僅か半日を要するに止まりました。この戦いで平の主要な人物はことこどく捕らえられ、或いは殺され、ここに平一族は完全に崩壊したのであります。義経は勝利に輝く英雄として京都に凱旋し、後白川法皇のご愛顧を賜りました。しかし、義経の絶大なる人気は彼の異母兄である源 頼朝の疑念と嫉妬を招くことになりました。頼朝は源族の最高指揮官でした。彼の政治的野心は鎌倉に彼独自の政府を立ち上げることでした。そして1192年に将軍に任ぜられ、日本で初の幕府という武家政治(将軍政府)を樹立しました。

頼朝は義経を追いつめついに頼朝に対する反乱に組するよう策略し、この反乱を所詮、失敗に終わらせることになり、止むを得ず義経は郎党家来と共に北の奥州(現在の東北)に避難の場所を求めることになります。

苦難をきわめた逃避行の末、奥州の平泉(岩手県)の藤原一族に漸く安住のところを得ましたが、その主、藤原秀衡の死(1187)により、その息子泰衡が義朝の攻めんかなの圧力を恐れ、ついに義経を自殺せしめることになります。この間にわたる義経主従、特にその一人の著名で忠節強腕な弁慶を中心とした信じ難い苦労ばなしは能や歌舞伎に数多くの悲劇として取り上げられ代々語り継がれてきています。

鞍馬や貴船を訪れると義経にまつわる伝説をもっと知ることになるでしょう。この地は近代生活から離れてリラックスして、しかも自らの気をはげましてくれるような自然の憩いの場所としてその姿を昔のままにとどめています。出町柳駅から叡山電車で貴船駅か鞍馬駅まで約30分の乗車です。鞍馬の自然地帯が非常に美しくそしてリラックスできるところ(地表にはみ出た古木の根の広がりがその辺りで特に人目をひく)ですからハイキング愛好者の人気のある目的地です。鞍馬寺や貴船神社を訪れることもできますし、また鞍馬温泉の天然湯でリラックスすることもできます。夏期は、この山の地域は比較的涼しく、訪れる人々は川の上に設けられた川床に座って流し素麺という麺が竹の筒を通って食台まで流れてくるのをまつという趣向を楽しみます。

 

-成田三郎&美杏花ジャービス

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京都インタビューシリーズ:ヒーブル・オンドレイさん

茂山三五七先生とヒーブル・オンドレイさん

茂山七五三先生とヒーブル・オンドレイさん

ヒーブル・オンドレイさんは1977年にチェコに生まれました。現在茂山七五三の弟子として京都で日本伝統舞台「狂言」を稽古しています。

インタビュアー(杉山)インタビュアー(杉山)
オンドレイさんオンドレイさん
茂山七五三さん(師匠)茂山七五三さん(師匠)


インタビュアー(杉山)簡単な自己紹介をお願いします。

オンドレイさんヒーブル・オンドレイといいます。チェコ生まれです。2002年10月にチェコのカレル大学・日本語学科から、同志社大学へ交換留学生として参りました。その後、大学院へ進み、現在は前期過程が終わって修士論文を提出し、次の進路を考えているところです。

インタビュアー(杉山)大学では、どんなことを勉強していたのですか。

オンドレイさん国文学を専攻していまして、日本の中世文学を中心に勉強していました。

インタビュアー(杉山)狂言に興味を持ったきっかけを教えてください。

オンドレイさんはい。16歳の時にロシア語からチェコ語に翻訳された「骨川」という台本を読み、古典なのに面白いなあと思ったのがきっかけです。その後、台本を翻訳した監督さんから、狂言をチェコ風にやってみたらどうかなあという誘いがきました。チェコの日本大使館で本やビデオを少し閲覧したりしたことがありましたが、日本の舞台は見たことがありませんでしたので。自分なりにアレンジしてやってみました。生まれた町の文化会館などで、日本の写真展のオープニングに併せて上演したりしました。

インタビュアー(杉山)この辺りから興味を持ち出したんですね。

オンドレイさんこのころは狂言がどのくらい珍しいか分からなかったですけれど、上演すると子供たちが笑ってくれたりして、反応がよかったのです。後に英語で書かれたものを読み、チェコが京都と姉妹都市であることが分かり、(その関係で)茂山家の狂言師がチェコに来られたときに、初めて 先生と出会いました。

茂山七五三さん(師匠)その時彼が通訳をしてくれたんですよ。98年のことでした。

オンドレイさん公演は2日間でしたが、その間 通訳のほかに、楽屋での
手伝いなどをして、何とか先生たちに近づきたいと思っていました。

インタビュアー(杉山)じゃあ、お二人はチェコで知り会われたんですね。

茂山七五三さん(師匠)そうです。初めは、彼が狂言を研究しているとか全く知らなくて、話を聞いて初めて知ったんですよ。

オンドレイさんそのあとは、先生にお願いして2000年にまたチェコに来ていただき、10日間初めてのワークショップをしてもらいました。

オンドレイさんそのあとは、ワークショップの時に教えていただいた「柿山伏」という狂言をチェコで、チェコ語でやったりして、いろいろ経験を積んで、来日しました。

インタビュアー(杉山)どんな練習をしているのですか。

茂山七五三さん(師匠)普通、演劇の稽古なんかでは、テキストを先に渡して、台本読みをしたりしますが、狂言の場合は、僕が言う言葉をオウム返しにいうんですよ。先生と生徒が対峙して言葉のキャッチボールをします。

インタビュアー(杉山)台本がないのですか。

茂山七五三さん(師匠)あるのですが、我々は後で見るのです。その稽古を始める時には台本はありません。その後、ある程度言葉がおぼわってきたら、言葉に準じて、動きの 練習に入ります。

オンドレイさん日本とヨーロッパにおける演劇の違いについてなんですが、日本では最初には、すべての稽古をビデオカメラで撮影し、動きや言葉など、先生のまねをします。リズムや間は、すぐに真似できませんが、いろいろな状況で経験されたことをそのまま教えてもらいます。ヨーロッパでは、台本をもらって、それを自分で覚え、表現の仕方を自分で学びます。主人公を新しい方法で描くなど、なるべくいつも新しい方法や今まで誰もやっていない方法でやります。動きも間も決まっていない状態から始めて3ヶ月のリハーサルの後、本番に入ります。そういう状況では、登場人物の細かい心理まで描くことは難しいのではないでしょうか。

インタビュアー(杉山)ヨーロッパの古典演劇でもそうなのですか。

オンドレイさん大きく違うのは、ずっと伝えられてきた演技というのは残っていません。

インタビュアー(杉山)シェークスピアでも?

オンドレイさんはい。残っていないのです。いくら昔とそっくり伝えようとしても、伝わっていない期間ギャップがあり、まったく同じように再現できません。

茂山七五三さん(師匠)能の世界では、300年前の今とでは、演出法はほとんど変わりませんが、歌舞伎や狂言の世界では、演技の方法には同じ演目であっても、代によって改善される部分が少しあり、(基本を踏まえたうえで)、そこから自分の個性や考えが生かせる部分があります。

演劇中 ヒーブル・オンドレイさん

演劇中 ヒーブル・オンドレイさん

インタビュアー(杉山)今はどんな舞台をやっていますか。

オンドレイさん「清水」という狂言を稽古中です。あらすじは、太郎冠者という召使と主人がいまして、主人は茶会のために清水へ水を取りに行きなさいといいます。僕は太郎冠者役をします。太郎冠者はなまけものなので、(行かずに)鬼が出て逃げ帰ったよう見せかけます。主人は自ら清水に秘蔵の手桶を取りに行くと言い出します。太郎冠者が扮した鬼におどかされ、主人は帰ろうとしたが、鬼の声が太郎冠者と同じであったことを見破ってしまいます。これは日本についての情報がなくても、うまく台本を翻訳することができたら、ヨーロッパでも同じように演じられると思います。なまけもの召使と主人がいて、さぼろうとするが、見つかってしまうーというのは、全世界共通した話題ですから。

インタビュアー(杉山)一般的に、素人が一から始める場合、どのくらいで舞台に立つことができるのでしょう。

茂山七五三さん(師匠)そうですね。簡単なものや短いものであったら、一年くらいですね。

インタビュアー(杉山)京都で好きな場所はどこですか。

オンドレイさん稽古場以外でしたら、清水寺と大文字山です。悩んだり、寂しいときに、夜の大文字山に登って、真っ暗な場所から、下界に明りが灯っているのを見るのが好きです。

インタビュアー(杉山)将来の夢を教えてください。

オンドレイさんまず、今まで大学で習ったことを改めて、体の技、演技を身に付け、もう少し稽古をしたいと思います。もちろん向こう(チェコ)で、(狂言を)やってみたいというのはあります。それにはまず、なるべくここ(日本)に近い状況でやってみたいです。また、狂言について、一般的な知識を広げたいし、台本をチェコ語に訳して、本を出してみたい。それから、向こうで、これはチェコだけでなく、ヨーロッパの方で、プロの狂言師が上演できる機会を作ること。狂言を向こうの方でも分かりやすく説明して、みんなに広めていければよいなと思っています。狂言の台本は、能と違って、江戸時代から少し変ってはきていますが、基本の部分や演技はすごく優れています。そして、明治時代以降には「その古典芸能をいかにわかりやすく演じるか」が考えられてきていて、基本と変化したもの―その両方のプロセスを併せたら、外国語で翻訳するときには、どういう言葉を選べばよいかというのが、逆にどういうものを日本の形で守らないといけないか、分かってくると思います。現代人のために、分かりやすくしたり面白くしたりしたところをうまく取り上げれば、本物に近いレベルまで持って行けるのではないでしょうか。一番大切なのは、言葉を翻訳するよりも、その(面白いと思う)心だと思いますね。

-杉山優子


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